【大相撲】番付「東西」の違いや意味は? 実は東が格上

番付の東と西の違いも実はあります。今回はその違いや東西の意味について詳しく解説していきます。

また、いつ頃から東と西に分けられたのか、そのきっかけとなる出来事についても触れているので、気になった方はどうぞ寄ってってください!

番付の東と西

大相撲の番付は、東二枚目、西二枚目といったように、同じ枚数の力士が2人おり、番付表では東と西に分けわれており、それぞれの名前が記載されているのが特徴です。また、同じ枚数の力士は東と西の同列に名前が記載されます。

ちなみに番付の東が左、西が右なのは、土俵から見て正面を北とみるため。

東が半枚格上

番付では、東と西にそれぞれに力士の名前が並べられ、両者同格のようにみえます。ですが、実際は東のほうが「半枚」格上の扱い。「半枚」とは文字通り1枚の半分のことです。

ゆえに東二枚目、西二枚目だと、半枚の差ながらも東二枚目の力士が格上となります。

また、半枚差は地位や待遇に差がでないものの、力士の昇進では西方にいたために1つ上の段に上がれないことは珍しいことではありません。これを角界では「半枚に泣く」とも表現します。

土俵入りが違う

力士の土俵入りも、番付の東と西で異なります。本場所での力士の取組は、番付に示された東と西にのっとった花道から入場し、土俵に上がります。

これはTV中継など見ればすぐ分かるので、比較的分かりやすい違いといえるでしょう。

東西に分けられたのはいつ頃?

力士たちが東と西に分かれて取組を行うようになったのは、一説によれば1645年江戸時代の京都・糺の森(ただすのもり)で行われた相撲がきっかけといわれています。

その相撲では、近江国(滋賀県)と山城国(京都)の間にある逢坂山(おうさかやま)を境界とし、西・東それぞれから上京した力士を分けて行われ、その後も力士たちを東と西に分けることが慣例になったとのこと。

ちなみに現在確認できる相撲史最古の番付(1699)が『大江俊光記』に記録されていますが、その番付もやはり東と西のそれぞれに分けられて力士の名前が記載されています。

ちなみに当時の番付は「目録」と称され、現在とは逆の横で名前が並べられています。

参考文献:『大相撲大事典(第四版)』(2015)、『日本相撲大鑑』(1992)

総括

  • 番付は東と西に分けられる。
  • 東のほうが半枚格上。
  • 土俵入りも番付の東と西にのっとって入場。
  • 力士を東と西に分けるようになったのは、1645年の京都・糺の森(ただすのもり)で行われた相撲がきっかけ。

今日での番付の東と西は、特に力士の昇進にあたって重要視されます。角界は、半枚で泣くこともある厳しい世界なのです。